歴史戦時下の町内会と隣組は何をしていたのか
回覧板、常会(定例の寄り合い)、隣組。いまも町内会で耳にするこれらの言葉は、太平洋戦争の前後に全国へ広まりました。1940年、内務省の訓令によって町内会と部落会は全国一律に整えられ、配給、防空、住民どうしの見張り合いを担う国の末端組織になりました。この記事では、その仕組みと暮らしの中での働きをたどります。町内会と行政の距離や、全戸加入という建前を考えるとき、この時代の経験は避けて通れない材料です。
## 1930年代、国が町内会に目をつけました
明治の市制町村制のもとで、国(内務省)は町内会を住民の自主的な集まりとして認めるだけで、制度には組み込んでいませんでした。横道清孝によると、1930年代に入ると、町内会を市町村の下で働かせる組織として使えるという見方が国の側に広がります。神戸市の資料は、1930〜1931年ごろからの農村経済更生運動と、1935年の選挙粛正運動をきっかけに、町内会や部落会が行政の末端として見直されたと説明しています。日中戦争が広がると、政府は戦争に向けて施策を住民に行き渡らせるため、これらの組織を使おうとしました。
東京市は、国より一足早く動きました。1938年4月17日の「東京市町会規準」(東京市告示第193号)で、町会に全戸が加わることを定めています(白木澤涼子)。白木澤の博士論文は、普通選挙が始まって町会が選挙の地盤になり、町会長から市議会議員になった人の汚職も起きたため、町会を市の統制の下に置く必要が生じたと論じています。
## 1940年の「部落会町内会等整備要領」
1940年(昭和15年)9月11日、内務省は訓令第17号「部落会町内会等整備要領」を出し、各地方長官に町内会などの整備を指示しました。横道がまとめた要点は次のとおりです。
- 市町村の区域を分け、村には部落会、市街地には町内会をつくる
- 部落会と町内会は、区域内の全戸で組織する
- 住民の地域組織であると同時に、市町村の補助的な下部組織とする
- その下に、10戸内外でつくる隣保班(隣組)を置く
世界大百科事典は、常会を通じて上からの指示を下へ伝える仕組みが整えられたと説明しています。白木澤は、内務省が法律をつくらずに訓令という形で町内会を国の仕組みに組み込んだと指摘しています。法律にすれば、市町村と町内会が二重に住民を治め、二重に税を取る形になりかねなかったからだといいます。
## 隣組、常会、回覧板
隣組は5軒から10軒ほどでつくられ、全国でおよそ120万の組ができたとされます(イミダス)。政府の指示は、町内会や部落会を経て隣組に届きました。常会は月に1回開かれ、家長か主婦の出席が義務とされました。政府はラジオ番組「常会の時間」で常会の進め方まで指導しています。回覧板は、当局の知らせや指示を書いた紙を板に張り、組の中で回して読ませる仕組みで、この時期に広まりました。
常会の中身を伝える記録もあります。歴史学者の一ノ瀬俊也は、『呉市史』に残る1940年12月6日の常会を紹介しています。広島県呉市のある隣保班が夜7時半から9時半まで開いた常会で、「一切不平を云はぬこと」が申し合わされました。一ノ瀬は、常会が国民の不満を抑える場であったと同時に、住民の要望を上に伝える場ともされていたと書いています。
## 配給は隣組を通じて届きました
東京都中央区の資料によると、1940年に砂糖とマッチが配給制になり、その後は米をはじめとする主な食糧や多くの生活必需品が配給の対象になりました。やがて食糧や生活必需品は配給でしか手に入らなくなります。配給は切符制で行われ、隣組の組長が切符や物資を分けました(イミダス)。一ノ瀬は、1944年ごろには配給された醤油などを隣組が均等に分けていたと紹介しています。
世界大百科事典は、配給制度がうまく動くかどうかは町内会と隣組にかかっていたと記しています。神戸市の資料も、戦争が長引くにつれて町内会が生活物資の配給にかかわり、その仕事と負担が大きくなったと伝えています。
## 防空と、住民どうしの見張り合い
隣組の主な仕事の一つは、空襲に備える防空と防火でした。1942年4月に本土が初めて空襲を受けてからは、バケツリレーで火を消す訓練が行われましたが、イミダスは実際の空襲ではほとんど役に立たなかったとしています。
隣組には、戦争に協力しない人を互いに見張る役目もありました(イミダス)。呉市では、1943年2月15日に改定された呉軍港防諜規程のもとで、市民ぐるみで不審な人を見つけ出す体制がつくられました。『呉市史』は、これによって市民どうしの言動の見張り合いが厳しくなったと述べています。1944年5月16日には、町内会が配給停止のうわさを憲兵に知らせた例もありました(一ノ瀬)。日本大百科全書は、隣組の制度が江戸時代の五人組や十人組を原型にしていると説明しています。
## 大政翼賛会の下部組織へ、そして法律の中へ
世界大百科事典によると、1940年の新体制運動の中で大政翼賛会が成立し、1942年5月の閣議で、大政翼賛会が部落会と町内会を指導することが正式に決まり、8月から実行されました。
1943年には市制町村制が改正され、町内会は法律の中に位置づけられました。市町村長の許可があれば町内会の名前で財産を持てるようになり、市町村長は町内会に市町村の事務の一部を手伝わせることができるようになりました(横道)。
## 戦後の禁止と、その後
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、町内会が国の命令を隅々まで伝え、統制する土台になっていたとして廃止を求めました。政府は1947年1月の内務省訓令第4号で1940年の訓令を廃止しましたが、住民が自分から任意団体をつくるのは認められていたため、各地で似た組織ができました。そこで1947年5月、政令第15号によって、町内会や部落会、その連合会の結成が禁止されます。この政令は、1952年に日本が主権を回復したのにともなう法律で効力を失い、町内会は各地で復活しました(横道)。
復活の仕方は地域によって違いました。神戸市は、町内会が行政の末端組織や下請け機関であってはならないという反省から、戦後長く町内会と公的なかかわりをほとんど持ちませんでした。そのため再建は遅く、1968年の組織率は43.2%にとどまっています。
この時代の町内会をどう評価するかについても、見方は分かれます。白木澤は、歴史学では戦時動員や戦時統制の受け皿になった面が強調され、社会学では人々の暮らしを支えてきた面に光を当てて評価し直す議論がなされてきたと整理しています。どちらも同じ組織が持っていた顔です。
浜区で戦時中、隣組や常会がどう動いていたのか。年配の方に話を聞いてみると、教科書にはない姿が見えるかもしれません。
## 考えるための問い
- 回覧板や班の仕組みは、戦時中に上からの指示を伝えるために広まりました。いまの回覧板は、何を、誰から誰へ伝えているでしょうか。
- 戦時中、配給は隣組を通じて届きました。いま、町内会を通じてしか届かないものはあるでしょうか。入らなくても困らないことは何でしょうか。
- 戦後の神戸市のように、行政と町内会が距離をとる考え方もあります。あなたの町内会は、行政とどのくらいの距離がちょうどよいと思いますか。
## 出典
- 町内会(コトバンク:世界大百科事典、ブリタニカ国際大百科事典ほか)
- 五人組(コトバンク:日本大百科全書ほか)
- 隣組(コトバンク:日本大百科全書、世界大百科事典ほか)
- 日本における最近のコミュニティ政策(横道清孝、自治体国際化協会、2009年)
- 神戸市における地域住民組織の成立と展開(神戸市、2023年)
- 明治地方自治体制と町内会[全文の要約](白木澤涼子、北海道大学博士論文、2017年)
- 隣組(イミダス編集部、2025年)
- すずのスケッチを見つけたのが近隣住民だったら(一ノ瀬俊也、現代ビジネス、2019年)
- 戦中・戦後の食糧事情と配給制度(東京都中央区)