歴史町内会のルーツは江戸の町と五人組にあるのか
町内会に入ると、回覧板や掃除、祭りの当番がまわってきます。こうした「町内のつきあい」は、いつ、どこから始まったのでしょうか。「町内会のルーツは江戸時代の五人組だ」とよく言われますが、研究者のあいだにはこの見方への疑問もあります。この記事では、江戸時代の町(ちょう)と五人組から、明治の衛生組合、大正の関東大震災のあとの町会づくりまでをたどります。いまの町内会が「全戸加入」を建前にし、行政の手伝いも引き受けている理由を考える手がかりになるはずです。
江戸の「町」は小さな自治の単位でした
江戸の町人が住む地域は、町奉行の下に町年寄、その下に町名主を置く仕組みで治められていました。町年寄は奈良屋、樽屋、喜多村の3家が代々つとめる役で、町人が選んだものではありませんでした(日本大百科全書)。町名主は1人で数か町から十数町を受け持ち、住民の訴えを取り次いだり、もめごとを調停したりしました(世界大百科事典)。 町ごとの日々の仕事を担ったのは月行事(がちぎょうじ)です。町内の地主や家持(いえもち。土地と家を持つ町人)が、五人組ごとに毎月交代で出て、自身番屋で町の事務をとりました。のちには、地主に雇われて土地を管理する家主(いえぬし)も加わるようになります(日本大百科全書)。町の運営費は「町入用」と呼ばれ、地主や家持から集めていました。 ここで見落とせないのは、町の運営に加われる人が限られていた点です。日高昭夫の論文は、伊藤久志の研究を引いて、江戸の町の運営は家持の町人が独占していたと紹介しています。長屋を借りて住む人は、町の正式な担い手ではありませんでした。五人組は連帯責任と相互監視の仕組みでした
五人組は、近所の5戸を一組にして連帯責任を負わせた制度です。豊臣秀吉が1597年(慶長2年)に出した掟にさかのぼるとする説明があり(日本大百科全書、世界大百科事典)、江戸幕府のもとで寛永年間(1624〜1644年)ごろに広まったとされます。ただし、始まりや整った時期は辞典によって書き方が違います。 組の単位は、村では本百姓、町では家持や家主でした。組は年貢の納入や治安に連帯して責任を負い、キリシタンや浪人の取り締まり、犯罪者の密告もさせられました(日本大百科全書)。その一方で、のちには訴訟や相続のときに助け合う働きも持つようになります(世界大百科事典)。決まりを書き並べ、組員が判を押した帳面は「五人組帳」と呼ばれました。見張り合いと助け合いという二つの顔は、のちの隣組にも引き継がれていきます。明治の大合併で、町や村は「制度の外」に置かれました
明治政府は、大区小区制などの試行錯誤を経て、1888年(明治21年)に市制町村制を定めました。これに合わせて町村の大合併が行われ、7万1,314あった町村が1万5,859にまとめられました(横道清孝)。江戸時代からの町や村は、新しい市町村の中の「町」や「大字」として残ったものの、法律上の自治体ではなくなりました。 日高は、法律に組み込まれた市町村と、法律の外に置かれた地域とが分かれたまま、実際の仕事ではつながっていく関係が生まれ、そこに町内会の原型ができたと述べています。法律上の組織ではないのに行政の仕事を手伝うという町内会の性格は、このとき始まったという見方です。横道も、合併前の町村のまとまりや、都市部の江戸以来の町組が、町内会として生き残ったと説明しています。都市では衛生組合が大きな役割を果たしました
明治の都市では、コレラなどの伝染病がたびたびはやりました。神戸市の資料によると、1890年(明治23年)の内務省の訓令で、江戸時代の五人組にならった隣近所単位の衛生組合をつくることが奨励されました。神戸市は1891年に市の条例で衛生組合の設け方を定め、1924年には395組合にまで増えています。衛生組合は消毒や清掃で協力するだけでなく、互いに見張り合い、病人を届け出ることも大事な役目としていました。 神戸では、兵庫県が1933年(昭和8年)に衛生組合の仕事を衛生関係に限る規則改正を行いました。そこで、それ以外の行政との連絡などを引き継ぐ組織として、1934年に町内会がつくられます。区域は衛生組合と同じで、役員も兼ねる人が多かったといいます。 東京では、1897年(明治30年)の伝染病予防法にもとづき、1900年に東京府が衛生組合の設置規程を施行しました。ただし日高によると、東京の町内会の前身は衛生組合だけではありません。地主や家主の会、若衆組、神社の氏子の集まり、親睦のための睦会など、町ごとにいろいろでした。たとえば文京区の湯島一丁目町会は、1898年に睦会ができ、1902年に総代会、睦会、懇話会、衛生組合の4団体が合併して、いまの町会の基礎ができたと記録しています。借家人も加わる「全戸の組織」へ
明治以降、町の運営に加わる人の範囲は広がっていきました。日高が紹介する伊藤久志の研究では、家持の町人が独占していた町の運営に、まず表通りの借家人が、やがて裏長屋の借家人までが加わる「平準化」が進んだとされます。防火、防犯、下水の掃除、祭礼などの費用を家持だけが負担する理由がなくなり、全戸で分け合う決まりが必要になったためです。いまの町内会が世帯ごとに会費を集める形は、この流れの先にあります。関東大震災が東京の町会づくりを後押ししました
東京市で町内会が次々にできた最大のきっかけは、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災だったといわれます。避難や自警、復旧のために近所の助け合いが欠かせないと、多くの人が身にしみたからです。日高の論文の注によると、東京市が震災の翌年に出した『町会規約要領』では、市内に925の町会と148の町総代、合わせて1,073団体が確認されています。1933年の調査では、新旧の市域を合わせて1,836の町内会がありました。「五人組がルーツ」という見方には異論もあります
では、町内会は五人組の生まれ変わりなのでしょうか。ブリタニカ国際大百科事典のように、起源を五人組制度に求める説明はあります。山川日本史小辞典は、明治期の衛生組合に起源があるとしています。 これに対して、北海道大学に提出された白木澤涼子の博士論文(2017年)は、「東京の町会は江戸時代の五人組の系譜を引く」という説明を、戦時中に国がつくった「フィクション」だと論じています。1940年の制度化のとき、住民が自分たちでつくってきた町会を国の仕組みに取り込むため、昔からある自治組織だという物語が使われたという見方です。町内会を昔からの伝統と見るか、近代になって住民がつくった組織と見るかで、町内会への向き合い方も変わってきます。 浜区の場合、町内会の始まりはどこにあるのでしょうか。古い記録や、年配の方の記憶をたどってみてください。考えるための問い
- 江戸の町では、家を持つ人だけが町の運営に加わっていました。いまの町内会で、決めごとに加わりにくい人はいないでしょうか。
- 衛生組合は、助け合いと見張り合いの両方を役目にしていました。あなたの町内会の活動には、どちらの面が強く出ているでしょうか。
- 町内会を「昔からの伝統」と考えるのと、「住民が必要に応じてつくった組織」と考えるのとでは、続け方や変え方の議論がどう変わるでしょうか。