歴史1970年代のモデル・コミュニティは町内会をどう扱ったか
いま、小学校区ほどの広さで町内会やほかの団体がまとまる「コミュニティ協議会」や「まちづくり協議会」を置く市町村があります。この形の源流は、半世紀あまり前の国の施策にあります。1969年に国民生活審議会が報告「コミュニティ 生活の場における人間性の回復」を出し、自治省(いまの総務省)がこれを受けて全国に「モデル・コミュニティ」を設けました。このとき町内会は古い地域共同体とみなされ、行政は町内会とは別の新しい住民組織をつくろうとしました。その試みが何を残し、どこでつまずいたのかを知ると、いまの町内会と協議会の関係を考える手がかりになります。
1969年の報告は町内会をどう見たか
報告をまとめたのは、国民生活審議会の調査部会に1969年4月に置かれたコミュニティ問題小委員会です。委員は社会科学の研究者6人でした。報告は、農村の村落共同体や都市の伝統的な隣保組織を、古い家族制度に基づく「閉鎖的な全人格的運命共同体」と呼び、その中で個人は共同体に「埋没していた」と書きました。崩れた理由としては、交通の発達による生活圏の広がり、都市への人口集中、趣味などで集まる集団の増加、共同体の仕事を行政が引き受けたことなど7点を挙げています。 そのうえで報告は、コミュニティを「生活の場において、市民としての自主性と責任を自覚した個人および家庭を構成主体として、地域性と各種の共通目標をもった、開放的でしかも構成員相互に信頼感のある集団」と定義しました。住民を「伝統型住民層」「無関心型住民層」「市民型住民層」に分け、これからは市民型住民層に支えられたコミュニティが必要だとしています。小委員会の実質的な責任者だった行政学者の佐藤竺は、のちに自分の考えがそのまま定義になったと述べています。佐藤は、住民が行政に対して主人公になるための訓練の場としてコミュニティを考えていました。なぜ町内会ではなく「コミュニティ」だったのか
行政の側にも事情がありました。自治省で小さな地域社会の検討を始めた長野士郎は、回顧録で、本当は町内会や隣組でもよかったが、当時は使えなかったと述べています。町内会は1947年に占領下の政令で禁止された過去があり、元自治省の木村仁によれば、1965年ごろまで省内で小さな地域社会を論じることはタブーでした。代わりの言葉を求められた宮澤弘が「コミュニティとでも言いましょうか」と答えた、という話が残っています。 一方で、行政学者の高木鉦作は報告が出た直後に、自治体がこの報告に注目したのは町内会や部落会に代わる新しい組織を提案したからだと分析しました。町内会は市町村行政の協力組織として働いてきましたが、その基盤が崩れて協力を得にくくなっていたためです。モデル・コミュニティで何が行われたか
自治省は1970年に「コミュニティ(近隣社会)に関する対策要綱(案)」を公表し、1971年4月からは毎年度の要綱を事務次官通知で都道府県に送りました。モデル・コミュニティ地区は1971年度40、1972年度13、1973年度30の計83地区で、おおむね小学校の通学区域が単位です。方針は、コミュニティ施設の整備、住民の参加による新しい自治組織の形成、その組織による活動の3つでした。愛知県の資料は、このとき目指されたのは既存の自治会等とは別の、行政からも独立した新しい住民組織だったと説明しています。 ただし1971年度の要綱には、市町村がコミュニティ組織の連絡調整の機構づくりに「積極的な助言または援助を行う」という一文が加わり、行政主導で画一的だと批判されて翌年度に表現が改められました。自治省はその後も、1983〜85年に「コミュニティ推進地区」147地区、1990年から3年間で「コミュニティ活動活性化地区」141地区を設けています。成果と限界の見方
評価は分かれます。肯定する側は、国が市町村の自主性に任せ、専門家による批判や評価の場を設けた新しい行政手法だったと見ます。三浦哲司は、きっかけも活動の場もないまま住民の間にコミュニティが自然に生まれるとは考えにくかったとして、行政がタブーを破って地域社会の問題を取り上げたことに意義を認めています。建物も残りました。1990年時点で「コミュニティ・センター」と呼ばれる施設は5000弱、施策に対応して建てられた施設は約1万弱あったという報告があります。 批判する側は、「官製コミュニティ」をつくっただけ、施設を整備しただけだと見ます。水谷衣里は、施策の中心がセンターの建設に移り、センターを運営する住民と一時的に使うだけの住民に分かれたと指摘します。町内会との関係では、行政がふだんから付き合う既存組織の代表に新しい組織づくりを頼んだため、「新たな住民組織の結成を、旧来からある住民組織に投げかける」構図になったといいます。東京都三鷹市の大沢住民協議会は1973年に43団体の代表67人で発足し、市の補助でセンターを運営したため、住民運動としての性格と行政に協力する団体としての性格の間で長く揺れました。 町内会と協議会が並び立つことの難しさは、いまも続いています。1974年から小学校区程度の「住区」ごとに「住区住民会議」を置いてきた東京都目黒区は、町会や自治会と住区住民会議の活動の重複を課題に挙げ、2017年の方針で町会や自治会を「地域のコミュニティ形成の基礎」と位置づけ直しました。考えるための問い
- 自分の地域に、町内会とは別の小学校区単位の協議会はありますか。あれば、役員の顔ぶれは町内会とどれくらい重なっていますか。
- 行政の補助金で運営される住民組織は、行政に対してどこまで意見を言えると思いますか。
- 報告がいう「開放的」で「自主性と責任を自覚した」集まりに、いまの町内会はどれくらい近いでしょうか。浜区の場合はどうか、考えてみてください。