歴史関東大震災のあと、都市で町内会が増えたのはなぜか
町内会は昔からどこにでもあった、と思われがちです。けれども東京の町内会の多くは、大正の半ばから昭和の初めにかけて新しくできたものでした。とくに1923年9月の関東大震災のあとの5年ほどは、結成が一気に増えた時期です。国の指示はまだなく、市がようやく数を数えはじめた段階です。この時期の町内会が何をきっかけに生まれ、何をしていて、市とどんな関係にあったのかを知ると、「町内会は上からつくられた組織だ」という見方がどこまで当たっているのかを考える材料になります。資料の多くは東京市の調査で、大阪についてはわかることが限られています。
震災の前から増えはじめていた
町内会が増えはじめたのは、震災の前からです。研究者の中村八朗は、東京市が1933年に行った調査の設立年を整理し、大正の半ばから設立が増え、震災前にすでにかなりの数になっていたと指摘しています。中村がその背景に見るのは大正デモクラシー(大正期に広がった、政治や社会の民主化を求める風潮)です。たとえば牛込区のある町では、地主だけで集まっていた会を1918年に町内の居住者全員の会に改めています。それまでの「有志だけ」「地付きの家だけ」の集まりが、住んでいる人ならだれでも入れる会へ変わっていったというのが中村の見立てです。 市の側も震災前から町内会に関心を持っていました。東京市は1923年5月から町会の規約を集めはじめ、7月に約600の町内会へ書面を送りました。ところが160通は宛先がわからず戻り、規約が集まったのは115団体だけでした。東京大学の佐藤健二は、事務所の場所をはっきり示していない会が多く、規約を文書にしていない会も多かったのだろうと読んでいます。役所からは所在もつかみにくい、住民どうしの気軽な集まりだったことになります。震災が近所を引き合わせた
震災の経験は、そうした近所づきあいを一変させました。東京市が1924年にまとめた規約の調査には、穂積重遠が自分の住む牛込区南町のことを書いています。勤め人が多いこの町では、ふだんは隣の人の名前も知りませんでした。地震は「銘々の巣に閉じこもっていた」住民を通りへ出し、火の用心と夜警、区役所から玄米を受け取る配給の当番を分け合ううちに、お金を集め、帳面をつくり、町内らしい形ができていったといいます。 数字にもその勢いが出ています。1934年に出た東京市の調査では、集計された2,260の町内会のうち、822(36.4%)が1923年から1927年の5年間にできていました。ただし設立の動機を尋ねると(一つの会が複数の動機を挙げた例もあるので目安です)、最も多いのは「町内親睦発展」で32.3%、「大震災」は15.9%、「官公署の慫慂(役所からのすすめ)」は2.3%でした。役所のすすめでできたと答えた会は、ごく少なかったことになります。 一方で、震災直後に町内ごとにできた自警団には暗い面もあります。内閣府の専門調査会の報告書(鈴木淳執筆)によると、9月2日の夜から焼け残った地域や周辺に自警団がほぼくまなく組織され、流言のなかで朝鮮人や怪しいと見た人に暴行を加えました。司法省の調査で起訴された事件だけでも、朝鮮人233人が殺されています。報告書は、自警団の多くは震災直後に自然発生的にできたものだとしています。震災を機にできた町内会には、こうした自警団から移ったものが多かったと、1927年の東京市政調査会の調査は記しています。町内会は何をしていたか
1924年の東京市の調査は、多くの町内会に共通する仕事として、慶弔(祝いや香典)、衛生(ごみや下水溝の掃除、予防注射の世話)、兵事(入営する若者の見送りなど)、祭事、自警の五つを挙げています。震災後は夜警の負担が重く、1927年の調査では、赤坂区のある町会は経費の56%を夜警に使っていました。人を雇って夜回りをさせる費用がかさみ、もめごとの種にもなったと報告されています。 役所との窓口の役目も、すでにこのころからありました。1927年の調査は、役所との交渉と通知の伝達をしていない町会はないと書き、1934年の調査では町内会の仕事の筆頭に挙がっています。不満も出ていました。1927年の調査に載った小石川区のある町会の役員は、区役所は町会を下働きのように考えて、調べ物やビラ貼りを次々に頼んでくるのに、費用は町会持ちだと訴えています。市はどう数え、どう手を入れたか
震災のあと、東京市が把握する町内会の数は急に増えました。1924年4月の一覧では町内会925と町総代148の計1,073団体、1925年の改訂版では1,167団体、1927年11月には1,370団体です。佐藤は、増えた分には新しくできた会だけでなく、市が働きかけて把握の範囲を広げた分も含まれると見ています。1932年には東京市が周りの町村を編入して市域を広げたため、それ以後の数は単純には比べられません。中村によれば、1936年9月には町内会が3,022、加入は105万6,075世帯で、市の全世帯の89%に達していました。 市の関わり方は、長く控えめでした。1922年に小石川区の自治会が発会したときには市長と内務大臣が祝辞を寄せていますが、中村によれば、当初の関心は住民教育の面が中心で、1924年の調査を担当したのも社会教育課でした。区役所の仕事が町内会に頼るようになると、昭和の初めに市と区の事務の分担を定めた規程に「町会に関する事項」が加わります。1929年9月には市会議員60人が町会の制度を調べるよう建議し、1932年に調査委員会ができましたが、実際に行われたのは功労者の表彰などにとどまりました。当時の論文はこの姿勢を「自由放任主義」と評しています。 動きが変わるのは1930年代の半ばです。市会の求めで1936年の予算に町内会の整備費がつき、1937年には2万7千円、1938年には25万円に増えました。1938年5月には市に町会掛が置かれます。整備の中身は、一つの町に一つの町会を置くこと、名前を「○○町会」にそろえること、規約を整えること、5軒から20軒ほどの隣組をつくること、区ごとの連合会をつくること、町内会の事業に助成金を出すことなどでした。大阪について確かめられたこと
大阪市について、大正から昭和初めの町内会の数や結成のいきさつを示す資料は、今回は確認できませんでした。確かめられたのは、1937年に大阪市が町内会の結成を進めようとした方針の文書が『新修大阪市史』の史料編に収められていることです。また、東京市政調査会の文献目録には、1938年の記事として、大阪市が従来の町内会をすべて解散させ新しい町会の結成を進める、という趣旨の題名のものが載っています。大阪でも、住民がつくった町内会がまずあり、1930年代後半に市がそれを組み直そうとした流れがうかがえます。自発的な組織から整備の対象へ
東京市が整備に乗り出した1937年の7月に日中戦争が始まり、町内会は戦争に協力させる単位として位置づけられていきます。1940年9月11日には内務省が「部落会町内会等整備要領」を示し、全国の町内会と隣組を一つの基準でそろえました。 この流れの読み方は、研究者によって違います。中村は、東京市の整備はもともと、よそから人が流れこむ大都市で住民の自治を取り戻すために町内会を生かそうとするものだったが、戦争と重なって総動員の組織に組みこまれた、と見ます。佐藤は、名前も規約もばらばらだった住民の集まりが、行政の下請けとして画一化されていく過程があったとし、町内会を初めから「封建的」と決めつける見方は乱暴だと述べています。どちらも、1930年代までの町内会に住民の自発的な集まりという性格があったことは認めています。考えるための問い
- 自分の町内会はいつ、何をきっかけにできたのでしょうか。記録や古い規約は残っていますか。浜区の場合はどうか、考えてみてください。
- 震災のときにできた助け合いの仕組みが、ふだんの近所づきあいとして続いた例があります。逆に、非常時の自警が他人を排除する方向に向かった例もありました。その違いは何から生まれると思いますか。
- 役所からの頼まれごとと、住民どうしの親睦や助け合い。いまの町内会の仕事は、どちらの割合が大きいでしょうか。
出典
- 佐藤健二「地域生活基礎集団の組織化 自治体行政と自治組織としての町内会」(内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923関東大震災 第3編・2009年)
- 鈴木淳「殺傷事件の発生」(内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923関東大震災 第2編・2009年)
- 中村八朗「戦前期の町内会 東京市の場合について」(アジア経済研究所「日本の経験」アーカイブ・原典は国連大学出版局ほか・1995年)
- 新修大阪市史 史料編 第15巻 近代Ⅱ 行政2(大阪市立図書館・2013年)
- 町内会に関する文献目録(東京市政調査会 市政専門図書館・2006年)
- 特別企画展「“隣組”ってなんですか?」のご案内(昭和館・厚生労働省・2016年)