歴史神戸のまちづくり協議会は町内会と何が違ったのか 10月25日 14:27 登録
神戸市には、町内会や自治会とは別に「まちづくり協議会」という住民組織があります。1981年に市が条例でこの仕組みを定め、1995年の阪神・淡路大震災のあとには、区画整理や再開発が行われる地区で数多くつくられました。自治会の範囲をそのまま土台にした協議会もあれば、計画に反対していた住民も加わった協議会もあり、事業が終わると自治会に仕事を返して解散した協議会もあります。町内会とは別の組織が生まれ、町内会と役割を分けたり重ねたりした神戸の経験は、自分の町内会が何を引き受け、何を別の組織に任せられるのかを考える材料になります。
真野地区では何から始まったか
出発点は長田区の真野地区です。神戸市の資料によると、真野では1965年に公害をなくすための住民運動が始まりました。子どもにぜんそくが出ていたことから、住民は市への陳情や企業との交渉を重ね、10年がかりで周辺の工場の移転を実現しました。その経験をもとに、1978年12月に「真野地区まちづくり検討会議」ができ、1980年7月に「真野まちづくり構想」を提案し、同年11月に「真野地区まちづくり推進会」が発足しています。 推進会は、構想を実際のまちづくりにつなげるために新しく設けられた組織です。現在も、地区内で建物を建てる人から事前に説明を受ける場として、毎月説明会を開いています。真野の例は、公害のような地区全体の問題には、日ごろの親睦や連絡とは別に、計画を話し合う場が要ると住民が考えた例として読むことができます。1981年のまちづくり条例は何を決めたか
真野の動きを受けて、神戸市は1981年12月に「神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例」(まちづくり条例)を定めました。市の説明では、地区の住民が言い出したまちづくりを、市民と市の役割を分けたうえで市が支える仕組みです。 条例のもとでは、住民や事業者、土地や建物の持ち主がつくった協議会を、市が「まちづくり協議会」として認定できます。認定の条件は、地区の住民等の大多数によってつくられていること、活動が大多数の支持を得ていることなどです。認定された協議会は、まちの将来像を「まちづくり提案」として市長に出すことができ、市はその内容に配慮するよう努めます。さらに市長と「まちづくり協定」を結ぶと、その地区で建物を建てる人は協定の内容に配慮し、市への届け出が求められます。 真野地区は1982年5月に認定を受け、同年10月に協定の第1号を結びました。内閣府の検証資料によると、震災前までに認定された協議会は12団体でした。協議会は、住民の側からまちの計画を市に持ち込む窓口として、条例に位置づけられたことになります。震災のあと、協議会はどのようにつくられたか
1995年1月の震災から2か月後の3月17日、神戸市は被害の大きかった地区で区画整理や再開発の都市計画を決めました。このときの復興の都市計画では、事業の区域や幹線道路などの大枠だけを先に決め、細かい道路や公園は住民と話し合って後で決める「二段階」の方式がとられました。後半の話し合いの相手として神戸市が組織化を進めたのが、まちづくり協議会です。 内閣府の検証資料が引く『阪神・淡路大震災復興誌』によると、2004年3月末の時点で神戸市の認定協議会は68団体あり、そのうち震災前からのものは10団体、震災後に認定されたものが58団体でした。68団体のうち51団体が区画整理や再開発の事業地区にあり、8割近くを占めます。同じ資料は、震災後にできた協議会の多くが住民の発意ではなく、事業を進めるための市の要請で生まれたとする地元の声も紹介しています。自治会との関係は地区によってどう違ったか
神戸大学の伊藤亜都子さんの論文(2000年)は、灘区の六甲道駅周辺の三つの地区を比べています。西地区の琵琶町では、震災前から高齢者福祉の活動を続けていた自治会が中心になり、都市計画決定の9日後に「琵琶町復興住民協議会」をつくりました。翌月には、これが協議会に当たることを市と確かめています。自治会がもともと持っていた力が、そのまま協議会の土台になった例です。 北地区では、それまでの自治会の範囲ごとに八つの協議会をつくり、協議会同士の連絡会を置きました。再開発が行われた南地区でも、話しやすい大きさにするため、既存の自治会の範囲をできるだけ生かして四つの協議会に分けています。ただし南地区では、協議会をつくれば再開発を認めることになるとして、設立に反対する声もありました。市は住民との窓口を協議会に一本化する方針を変えず、住民は市と話し合うためにも協議会が要ると判断して、6月に設立を認めました。論文は、南地区の協議会の中に、元の自治会を中心とする協調的な人々と、計画に異を唱えた住民の会の流れをくむ人々が同居していたと分析しています。 協議会と住民の関係がこじれた地区もあります。内閣府の防災教訓資料は、震災直後に急いでつくられた協議会の多くが運営でつまずき、対抗する「住民の会」ができた地区もあったと記しています。混乱のなかで生まれたため、地域の住民の顔ぶれを正確に映していない協議会があるという指摘もあります。事業が終わったあと、協議会はどこへ向かったか
伊藤さんの論文によると、六甲道の三地区はいずれも、事業が山場を越えたあとは地域の仕事を協議会から自治会へ移す予定でした。北地区では1998年5月に「自治会組織検討委員会」をつくり、自治会の規約を見直しています。住民のあいだでは、協議会は「復興への対応」、自治会は「日常の暮らしへの対応」という分け方で受け止められていました。 『阪神・淡路大震災復興誌』は、神戸と阪神間のまちづくり協議会133団体のうち99団体が震災後に発足し、その多くが行政との交渉の窓口だったため、事業が進むと自然に消えるか、自治会の組織へ切り替わったと書いています。西宮市の森具地区では、2000年3月末に協議会を解散して、通常の自治会活動に移りました。 協議会を続けようとすると、別の壁もありました。内閣府の検証資料によると、神戸市の懇話会がまとめた2000年の報告書は、協議会がゆるやかな集まりで構成員の決まりがなく、賛成と反対を割合で数えにくいと指摘しています。公園などの施設を住民が管理するといった新しい仕事を引き受けるには、総会の決め方や役員の責任をはっきりさせ、契約のために法人になる必要が出てきます。報告書は、その行き先の例として会社やNPO法人と並べて「法人化自治会」を挙げました。 協議会そのものは今も残っています。神戸市によると、2026年6月1日時点で認定まちづくり協議会は56団体、まちづくり協定を結んだ地区は20地区です。考えるための問い
- 自分の町内会の範囲で、道路や建物の建て方のように町内会だけでは決めきれない話が出てきたら、誰が住民の意見をまとめ、市に伝えるでしょうか。
- 町内会と別の住民組織ができたとき、役員を同じ人が兼ねるのと別の人が担うのとでは、それぞれどんな良い点と困る点がありそうでしょうか。
- ある目的のためにつくった会が役目を終えたとき、その仕事を町内会が引き取る準備はあるでしょうか。浜区の場合はどうか、考えてみてください。